2011年4月18日月曜日

シュメル語(ウバイド語)・アッカード語:宗教語・学術語

出典:『歴史学講座「創世」うらわ塾主宰:小嶋秋彦』

○古代日本へ渡来した人々の系譜「小嶋秋彦原図」(一部修正ブログ用に編集)

「ヨーロッパ」

ケルト人 グルジア(カルトゥ人) クレタ島
↑  ↑          ↑
※スバル人(カルト人・       フルリ人)→シュメル人
シュメル人→メルッハ(インド・ヤーダヴァ族=クリシュナ)→ドヴァーラカー(龍宮)→トミ族                                       ・阿曇族

トミ族・阿曇族「香椎・九州末盧国・投馬国・出雲(富)・安曇野・伊勢磯城・諏訪」

※スバル人(カルト人・フルリ人)→セム族(カルディア=クルド人)→ヘブライ人=イブリ→

ヘブライ人→イスラエル(ガド族・レビ族)→月氏国(大月氏)→

月氏国・呉(高麗)・新羅・百済→伊都・出雲秦氏・武蔵国・大倭・物部氏・葛城氏・蘇我氏

ヘブライ人→ユダヤ(ユダ族)→「常陸・エゾ・十勝(陸別)」

ヘブライ人→ユダヤ(ユダ族)・キリスト教徒「石見・美保」

イリ(ギリシャ)・マケドニア人・イマティア人・イオニア人→アレキサンダー大王(セレウコス朝)→

→アレキサンダー大王(セレウコス朝)→バクトリア(スキタイ(サカ)人)→

→バクトリア(スキタイ(サカ)人)→サカ(塞・スキタイ)王朝「大和王朝(崇神天皇)・大伴氏

サカ(塞・スキタイ)王朝「大和王朝(崇神天皇)・大伴氏・息長氏・和邇氏・太氏・毛野氏

イリ(ギリシャ)・マケドニア人・イマティア人・イオニア人→ローマ帝国[時代]→

ローマ帝国[時代]→キリスト教徒「播磨国・高市郡(大和国)・<神功皇后>」

キリスト教徒→百済・新羅「播磨国・高市郡(大和国)・<神功皇后>」

※スバル人→和人(夷)(阿尼族・夏人)」→倭人(倭人・伽那人・百済人・新羅人)
                               「故射・九州中臣氏」

アーリヤ(アーリヤン)―インド(アーリヤ人)→馬韓・新羅「奴国・末盧国・不弥国・邪馬台国                                    ・神武天皇・多氏

夏人・倭人(ウワイト)・漢人・高句麗人「十勝(陸別)・エゾ・常陸(稲敷)・石見」

ヒッタイト人→殷(商)→周→漢「十勝(陸別)・エゾ・常陸(稲敷)・石見」

朝鮮人・高句麗人・新羅人・百済人「大和王朝(継体天皇)・出雲・鳥取」



出典:言語復原史学会

○壮大な欧亜和人圏の実在

「現代語の相互関係(模式図)」(加治木原図)※ブログ掲載用に一部修正

空間   古代)      時間     (現代)
(文法を支配したもの)(語彙を形成した混血)(世界の現代語)
ウラル語群
原中国語                 中国群
朝鮮語
原北方語                 アイヌ語
日本語群
原マレー語                アルタイ語群
マレー語群
パーリ語
原インド語                セイロン語
インド語
原中近東語                アラブ語
原南欧語
原北欧語                 欧州語群

古代に文法を支配した原…語は

空間と現代までに経過した時間により語彙を形成し、混血し、

世界の現代語群に発展した。

「古墳」とは、

バビロン王朝が造営したジグラッドと同じく、

ヤマ神信仰の太古にさかのぼる宗教建造物である。

それがバビロンの崩壊によって難民の大移動とともに、

インドヘのアーリア人大侵入になり、

アレクサンドロスの東、

アショカ王命によるソナカ仏教布教団の東方宣布になって日本列島にとどいた。

本当は日本列島を通りこしてシベリアの東端に達した。

なぜそれがわかるかというと、

そこに今「マガダ州」というアショカ王国と同じ地名が厳存しているからなのである。

そうした大移動にもかかわらず、

人々はその信仰をもち続けた。

故郷の聖なるシュメールが

インドのスメラ山、

インドネシアのスメル山、

中国の須弥山(シュミセン)として崇められ、

天皇をスメラギとと呼ぶことで「保存」され続けた。

天皇の万世一系には曲折があるが、

曲がりなりにもこの名門が4千年を超える伝統の承継者であることは、

まぎれもない事実である。

それは従来のインチキ史学が教えてきた、

2600年程度のものではない。

だからそれを破壊することは惜しい。

どう守るかが大切なのはこの点なのであって、

けっしてそれが君主であったり、

絶対権力者の子孫だという理由からではない。

それは溜め池や古墳などのすべてを引っくるめて、

さらにはるかにさかのぼる歴史の生き証人として、

どんな文化財にも勝るものをもっているからなのである。

このことに無知で、

単なる征服者にすぎない欧米の君主なみに扱かっては、

やがてくるその末路は目に見えている。

この間題を根本的に考えてみる時期がきていることを忘れてはならない。

古墳を科学的に分類することは、

形骸だけを計測することではないことが、

これでよくおわかりいただけたと思う。

アレクサンドロスがインド征服後、

死者を葬い、戦勝を記念するという二つの目的を同時に果たすものとして建設した

パンジヤブ州タキシラの1ダースのスツーパ(天壇=卒塔婆)も、

サーンチーの大スツーパも、

ポロブドゥール遺跡も、

すべてヤマ(山)なのであり、

スメラ山なのである。

その中でいちばん「凝った形」をしているのが、

須弥山図をまる写しにした前方後円墳である。

型式を問題にしなければ古墳は欧亜に広く分布している。

それはすべて古墳人
すなわちバビロンの難民とギリシャ系移民とが芯になった

「和人・倭人(ウワイト)」の遺跡で、

壮大な欧亜和人圏が実在したことの証しなのである。


○シュメル語(ウバイド語・アッカード語)の日本への流入

ウィキペディア百科事典によれば

シュメル語は
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%A1%E3%83%BC%E3%83%AB%E8%AA%9E

古代メソポタミアで使用された言語である。

少なくとも紀元前4千年紀にはその使用が確認されており、

筆記された言語としては最古のものである。

時代が進むにつれアッカド語に押され、

紀元前2000年頃から200年あまりの間に口語としては死語となった。

しかし、古代メソポタミア社会において宗教語、学者語として長く受け継がれ、

ヨーロッパにおけるラテン語やインドにおけるサンスクリット語に

類似した地位を与えられた。

シュメル語と同系統と考えられる言語はこれまでのところ発見されていない。

シュメル語圏にはセム語を話す人々が混住していたが、セム語との系統関係は認められない。

ただし、公式には認められていないが日本語との類似、漢字のみで記載された

古事記がシュメル語で読めるという書籍などもある。

近年エラム語とシュメル語の系統関係の存在を主張する者もいるが、

両言語の関係を示す証拠はほとんど無く学会では受け入れられていない。

一般には系統不明とされる。

アッカド語は
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%83%E3%82%AB%E3%83%89%E8%AA%9E

古代メソポタミアで、主にアッシリア人やバビロニア人に話されていた言語。

当時は国際共通語でもあった。

アフロ・アジア語族セム語派に分類される。

現在知られているなかで最も古いセム語である。

楔形文字で表記された。

またシュメール語からの借用語が非常に多いのも特徴の一つである。

※シュメル語の成立については下記の文献を参考にして下さい。

シュメル-人類最古の文明:『小林登志子』中公新書
http://blogs.yahoo.co.jp/matmkanehara/folder/1602066.html
http://bloghistorygallary.blog10.fc2.com/category9-20.html
『メソポタミア世界』
シュメル-人類最古の文明

出典:言語復原史学会


○シュメールは英語訛り、実在したのはシュメル=スメル

シュメールは英語訛り、実在したのはスメル

シュメールと、これまで呼んできたのは、実は正確な発音ではない。

それはアッカド語で、正しくは次のように「Sumeru」と書き、

発音は原語でも、ギリシャ、ラテン発音でも「スメル」なのだが、

研究の主力が英国人だったために、

我が国では英語訛りが使われて、シュメールという発音が名詞として定着、

それを使わないと何のことか判らないという異常な状態が今も続いているため、

加治木義博も仕方なく、これまでシュメールとしてお話ししてきたのである。

だから古代には<シュメールなどという名詞は存在しなかったのであって、

スメル、スメラギ(スメル吾君(あぎ))の方が実在していたことを、

しっかり確認しておいて戴きたい。

またそれは国名だとも思われているが、

ティグリス・ユーフラテス両河下流域を中心とした漠然とした地域名で、

住民自身はそれを楔形文字

Ki(葦)

En(主)

Gi(地)と書く。

2大河下流域は湖沼が散在する広大な葦原地帯である。

葦の主(王)の土地だというのだ。

この語順にも注意がいる。


○令亀・灼骨ともにシュメル(スメル)文化の分布

この「令亀の怯」とは、中国では殷商帝国で行われ始めた習慣で、

亀の甲羅に複数の答を彫って、 火で焼くと乾操してヒビ割れが走る。

それが指した答が神の教えだとする法である。

複雑な疑問を単純化するこのシステムが、殷と倭人の双方にあるのは、

肩甲骨を使う人々は獣が主食の草原の畜産者が

日常的に獣を焼くことから自然に発生した占いで、

スメル人ではあるが傍系。

だが亀の甲の方は水利に長けた本系ウバイドの慣習が貴ばれたものである。

だから令亀の法は倭人(ウワイト)の方が古く、霞ケ浦で栄えた稲敷人が農業とともに、

こちらから殷に持って行ったことが判る。

これらは倭人(ウワイト)は三千年以上前には、

少なくとも関東の稲敷にまで住んでいた証拠だから、

奈良に女王の統治する国があっても不思議ではない。

しかし九州から関東までなら、漢との通交国数が百カ国しかないのは余りにも少な過ぎる。

この国のサイズは、帯方郡から伊都までの国々が、

一大や末盧などの千戸単位の村落国家まで一国と数えているのをみれば判る通り、

それは後世の播磨や大和などの、六十余州サイズの国ではない。

また逆に見れば六十余州のうちの関東までなら今度は百カ国は多すぎるから、

それが市町村サイズの国々だったことは動かない。

この百から三十に減った国の数もまた、卑弥呼と壹與の二代の女王国が、

ともに九州内、とくに南九州にあった証拠である。

日本語と全く同じであることを見落としてはいけない。

だから『記・紀』が、我が国の別名として挙げている

『豊葦原瑞穂(水穂)之国』とは、

この<KiEnGi>の直訳だと理解する必要がある。

このままでは「スメル」は単なる地域名に終ってしまうから、

放置せずに、もっと追及して見よう。


○我が国まで来たのはシュメル人ではなかったか

我が国まで来たのはシュメル人ではなかったか

我が国の遠祖が、シュメルからやって来たように見える証拠を挙げてきた。

しかしそれは可能性があるというだけで、決定的なものではなかった。

我が国のシュメル起源説は少なくないが、まだ動かない結論を出した論説は1つもない。

だから当然、反論もあったが、それもまた中途半端で終わっている。

それはなぜか?

それは論拠が弱く、学問として不完全だったからだ。

そこでこれからその不完全さを指摘して、日本列島へきた私たちの祖先は絶対に

「在来のシュメル人」ではなかった事実を立証してご覧に入れよう。

その決定的な証拠は、シュメル文化を代表する

円筒印章が我が国に伝わっていないという事実である。

円筒印章は、シュメル文化を代表する、ずば抜けた先進文化である。

それは同じ文字や符号や絵を、素早く、簡単に、繰り返し、再生して、表示し、

記録として長期間、不変の姿で保存できる。

という『印刷術』の発明なのである。

その技法も円筒形の原板を回転して押捺するというシステムは、

印刷術でも高度の発明である輪転機に匹敵する。

押捺するだけの普通の印章とは比較にならぬ、

現代の発明にも比肩する高度の知能産物だ。

しかもその用途は、契約や記録にサインに代わるものとして、

一度使用し始めると政治経済、文化の総てに無くてはならぬ、

社会生活に不可欠の必需品なのである。


○来たのは円筒印章文化以前にシュメルを出た人たち

だから、それを使用してその便利さを知った人々は、

それなしには仕事ができなくなる。

たとえどこへ移住しても、取引き、契約、記録はついてまわる。

生活必需品になった印章は放せないから、

移住先でもそれを使い続けて、

最後は副葬品の中に入っていることになる。

それなのに我が国では、その遺物が全く見当たらない。

それも<円筒印章>が大きくて、輸送が不可能な器具なら別だが、

簡単に携帯できるし、

仮に無くしたとしても特殊な材料や製作技術がなければ作れないものではない。

材料は石ころであり、その整形や彫刻も、素人細工でも充分作れる。

だから、それが我が国に皆無だというこの事実は、

円筒印章文化をもったシュメル人は、

我が国には来ていないという動かぬ証拠なのである。

では何故?

これまで見てきたようなシュメル人との共通遺物が見つかるのだろうか?

それは円筒印章が発明される前にシュメルを出た人々が、

我が国までやってきた場合にだけありうることである。

私たちの先祖がシュメルから来たことは、

数々の証拠で間違いない事実だと納得できているのだから、

シュメルの歴史知識はどうしても必要だし、

シュメルとは何か?

という常識ももっていなければならない。

必要部分を手短かに見てみよう。

またそれがもっと明確な遺物・証拠を残していないかも再検討してみよう。


○シュメル発の日本語群と日の出・日没への関心

当時のシュメル語と日本語の共通語には次のようなものが確認できる。

宮司=サング、参宮、南九州ではグッサンという。

商売人=シヤプガル、人=グル(アイヌ語)。

大工=ナガル、刀は片刃(カタナ)、刃=ナ、ナガル=刃人・刃物師だ。

自国民=ウッキン、内君、ウチの大切な人たち。

その長(おさ)が大君・ウッキン(南九州)。

王=エン、役(エン)の小角(オヅヌ)は修験者たちの王(エン)。

修験という名もシュメルに通じるが、

その額(ひたい)に着ける兜巾(ときん)も、

今もイスラエルの司祭が全く同じものを着けるし、

また耳の前に我が国古代の髪形・ミヅラとよく似た特殊な髪を垂れる。

これは彼等がバビロン捕囚時代に身につけた

シュメル文化の遺物で当時のレリーフにも見られる風習。

イスラエル人だけのものではない。

しかしこのウルカギナ王のとき、

ウンマの軍勢が侵入してテラシュ神殿などを襲い、

宝石貴金属を奪い放火して焼き払った。

この神殿名も「照す」で、南九州には寺師(てらす)姓もある。

この時以後ウンマは侵略政策をとり続け、50の都市国家を征服して、

日の出るエラムから日の入るシリヤ(尻国(ヤ)・後(しり)国)まで

シュメル全土に君臨した。

エラムは沖縄発音・イラブ=伊良部、

南九州発音エラブ=永良部で、

この地名のルーツを物語るし、尻の反対語の頭(かしら)によって、

頭に「選ぶ」という日本語がこのシュメル語から生まれたことも理解できる。


○国号『日本』のルーツはシュメル語の太陽と神殿名

シュメルでは太陽神をシャマシュと呼ぶ。

南九州語では焼酎をソツと発音するように、

シャ、シュ、ショはサ、ス、ソと発音する。

薩摩はサツマではなくサッマと発音する。

ご存知の通り薩摩は開聞(ヒラキキ)・枚聞(ヒラキキ)を

首都にしたヒラ=日国(ヒラ)=日本=新羅の中心であって、

天智天皇はシャマ主(シュ)だったが、発音はサッマ主で。

薩摩はそれに当てた当て字だ。

太(シ)陽(ヤ)国(マ)で、だがそれをマレー語の1=サツだとした人たちが、

壱国と当て字したのが邪馬壹国なのだった。

日をニッと発音するのも南九州語で、 

日本は神殿名ニップルがニップヌになったものへの当て字である。

シュメル語の国名はアッカド、アッシュルなどとサッマと同形の撥(は)ね方をする。

レイライン以下多くの共通文化が、

『日本』という国号はシュメルにルーツがあったことを立証している。

シュメルをスメルと発音する地域も南九州以外にはない。

五彩圏当時の<倭>=<沖縄>から中国東北区までを調査しても、

焼酎を「ソツ」と発音する特異な言語をもった土地もない。

天皇をスメラ王(ギ)と発音する限り、

神武天皇が奈良の橿原で即位した時を紀元とする

邪馬台国大和説などは根底から崩れて消滅する。

日本国は7世紀後半まで鹿児島県にあったことを『唐書』が詳細に記録しているし、

その『日本という国号』は、

今から4000年前のシャマシュ大神とヤマトバルとニップル神殿から始まっているからである。

『参考』
歴史学講座『創世』うらわ塾
翻訳と辞書 [無料]
リンクフリー〔UTF-8 対応版〕
小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
『メソポタミア世界』
シュメル-人類最古の文明
歴史徒然
歴史回廊  
ウワイト
古代史の画像

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